この4月27日に、最高裁から刑事司法に関してすばらしい判決が出された。平成14年に発生した大阪母子殺害事件につき、大阪高裁の死刑判決を最高裁が破棄差し戻したのである(5人による小法廷。うち1人反対意見)
この判決は、前回に述べた「刑事事件の有罪率99.9%」に象徴されるデタラメな刑事司法の改善に向けた、大きな一歩となろう。
そもそも刑事裁判においては、検察側に犯罪の証明を行うべき立証責任が課せられている。その立証の程度は「通常人なら誰でも疑いを差し挟まない程度に真実らしいとの確信」が求められ、「合理的な疑いを入れない程度の証明」が必要とされている。その意味から、裁判には「疑わしきは被告人の利益に」や「無罪の推定」といった原則も存在する。
刑事事件における警察・検察の側は、被疑者を拘束し捜索や取調べを強制すること等ができる。捜査側がこうした強大な証拠収集力等を行使した結果として、被疑者を逮捕している。であれば検察側がその犯罪を立証しなければならないのは当然のこととなる。
新聞に掲載された判決の要旨の冒頭を引用する。
「刑事裁判での有罪認定にあたっては、合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要で、その立証には、被告が犯人ではないとすれば合理的に説明できない事実が含まれていることを要するべきである」。そして一・二審ではこの要件を満たしていないとして、差し戻されたわけである。
今回の最高裁判決は、刑事裁判の基本原則を当たり前に適用したに過ぎないともいえる。
しかし今までの刑事司法はまったく様相が異なる。「刑事事件の有罪率99.9%」が示すように、裁判所は検察庁が起訴した刑事被告人を何でもかんでもすべて有罪にしてしまう。
であれば捜査の現場は、見込捜査によりとにかく犯人らしい人を逮捕する。そして強烈なプレッシャーをかけることにより、思い通りに「自白」させてしまう。証拠は適宜体裁を作る。警察と同類の検察も同じ路線を走る。いかに杜撰な起訴であっても、裁判所がみんな有罪にしてくれるから心配無用だ。これで一件落着。これでは冤罪が多発するはずであろう(これらの詳細は、「足利事件の無罪判決と、有罪率99.9%」のコラムご参照)。
仮に、公正な裁判が行われるとしよう。そうであれば、裁判官は「自白」の不自然さに気づく。被告や弁護士の弁明にも耳を傾ける。検察が隠している無罪の証拠の提出も命じる。
そしてこの最高裁判決が、この当たり前の裁判を一気に促すことになる。最高裁事務総局の苛烈な人事考課を恐れて、下級審の判事はひたすら最高裁に迎合する判決しか出そうとしないからだ。しかしこうした迎合であれば大歓迎である。
ちなみにこの大阪母子殺害事件も、警察は被害者の身近な人を犯人と決めつけ、見込捜査により逮捕した。そしてその後裏付け捜査を懸命に行ったが、決定的な証拠はなかった。
となれば各種の状況証拠をもっともらしく積み上げ、これに基づいて起訴した。従来であれば当然に有罪判決が出るはずだったが、この最高裁でものの見事にひっくり返された(仮に彼が無罪であれば、その場合を想定した捜査は行っていないため、迷宮入りとなる。見込捜査はしてはならないのである)。
ある裁判官は、補足意見としてここまでいう。
「一般に、一定の事実(つまり被疑者が犯人である)を想定すれば(状況証拠等により)様々なことが矛盾なく説明できるという理由のみで、その事実が実在したと断定することは極めて危険だ。「仮説」を「真実」というためには、それ以外のことが明らかにされなければならず、刑事裁判でも、この基本的枠組みは十分に尊重されなければならない」。
この大きな風向きの大変化は何故か。それはいうまでもなく裁判員制度の出現(前年5月にスタート)である。これによる市民目線を意識すれば、最高裁が「従来のような警察・検察のチェック機能を放棄したような裁判を継続することはできない」と判断したとしか思えない。
事実、裁判員制度を意識したと思われる司法界の変化は、すでにあちこちに散見される。さらに同時にスタートした検察審査会の権限強化も見逃すことができない。
こうした制度により、国民目線・市民感覚が閉ざされていた司法の世界に入ってくる。幸か不幸か、司法界のデタラメぶりは一般市民にほとんど知られないままにきている。この実態が新制度により市民の知るところとなると、司法界の権威は一気に地に墜ちる。それを防ぐために最高裁が先手を打ってきたのであろう。
しかし理由は何でもいい。とにかく司法界の改善はめでたい限りだ。そしてこうした先(ただしずっと先)には、私の本来の狙いである行政訴訟の改善につながっていると確信しているのである。