6月17日に、最高裁から損害賠償に関して妙な判決が出された(18日付読売新聞)。
購入した住宅に重大な強度不足が判明したが、購入者は経済的理由でその後もずっと住み続けている。この場合の欠陥に対する損害賠償額がどうなるかの話だ。二審は、その建築費にほぼ匹敵する賠償額を命じたが、事業者の側はこの点を理由に賠償額の減額を主張したのだ。
最高裁は次のように判示した。「住宅は強度不足で倒壊の恐れがあるなど、経済的な価値はないことは明らかで、住み続けていることを利益ととらえて損害額を減らすことはできない」。
一見もっともらしいが、以下に述べるとおりこの判決に承服しかねる。常識的な観点からも大いに疑問だ(ただしこの件の詳細は不明で、あくまでも新聞記事の内容が前提)。
価値には少なくとも交換価値(判決のいう経済的な価値)と使用価値の二つがある。購入者は重大な欠陥により交換価値のすべてを失った。しかし強度に不安があるとはいえ、使用価値はまだそれなりに残っている。
現に世の多くの人は、大地震に直撃されれば倒壊する恐れのある家に住んでいる争点となった家の強度も、一般の古い家屋と大差ないのではあるまいか。それでもそれらの居住者は、その使用価値をフルに享受している。
とはいえこうした使用価値は個人差が極めて大きい。「そんな怖い家に住むのはイヤだ」と思う人にとっては、使用価値はゼロとなる。その意味から使用価値の客観的な測定はできない。
だからといって使用価値を軽くみることはできない。そもそも価値の源泉は使用価値であり、交換価値もこれをベースに成立する。
さてこの最高裁判決は、経済的な価値(交換価値)のみを問題とし、使用価値を考慮しなかった。「被害者は住みたくて住んでいるわけでないと思われ、その使用価値は極めて少ない」、というのであれば話は分かる。しかし判決はそうではない。使用価値を完全に無視したのだ。
しかしこの判決によれば、「住宅が不当に破壊された場合でも、それが経済価値のない古い家であれば損害賠償の対象とはならない」ということになる。これだけでこの判旨は破綻。使用価値を無視したことによる致命的矛盾である。
この判決も、「頭でっかちなばかりで常識を知らない」という裁判官の特質がよく表れている。
繰り返すが、判決のいう「強度不足で倒壊の恐れがある住宅」など、世の中には山ほどある。そして「その”恐れ”が現実に発生する確率はゼロに近い」と考えているからこそ、(この購入者を含め)住人はそこに平気で住んでいる。結局この購入者はこの判決のおかげで、強度不足とはいえきれいな家を只に近い額で手に入れたわけだ。常識的にいえば話がうますぎるといえよう。
一方この判決からは、「こうした不動産・建築事業者を悪者にさえしておけば、世の中は納得するはず」といった、最高裁の安易な発想が透けてみえるように思えてくる(不動産業界にも身をおく者のひがみかもしれないが)。
裁判所という小心者の組織は、かなり世論の動向を気にしている(迎合しているとまではいわないが)。法律など何とでも解釈できるのだ。
したがって、訴えられた者が大病院や超大企業といった場合には、こうした被害者擁護の判決は皆無といってよい。裁判所は強い者(とりわけ役所)の味方なのである。
余談ながら、「最高裁が交換価値ゼロと断定したこの家屋に、どのような固定資産税評価額が付されるか」を考えておきたい。実は「固定資産税評価は交換価値を評価せよ」と定められている。したがって当然にその評価額はゼロとなるはずである。
しかし現実の評価額は一般のものと変わらない。この価値ゼロの家にもしっかり固定資産税が課される。
世の中にはこうした家屋(空室ばかりのアパート、客の全く来ない豪華リゾートホテル、管理のなされていないボロ屋等)は極めて多い。しかしこれらは、すべて通常の管理・使用がなされているとして評価されてしまう。だから高額な課税がなされる。
むろんこうした評価・課税は全くの違法である。さらに余談ながら、私はこうした明白な違法を何度も裁判で争ったがすべて敗訴。繰り返すが、裁判所は強い者(とりわけ役所)の味方なのである。