東京第5検察審査会は10月4日、小沢一郎氏につき「起訴議決」の決定をしたことを公表した。これにより彼は強制起訴されることとなる。しかし私はこの決定には釈然としない気持ちが強い。
そこで「釈然としない気持ち」(もっといえば、何かイヤーな感じ)となるその元は何なのか、この決定の妥当性はどうなのか等を検証してみたい。
検察審査会の任務を一言でいうと、起訴権限を独占してきた検察の恣意性のチェックといえよう。とりわけ身内・親戚ともいうべき警察官や看守等の犯罪は、検察はほとんど起訴しようとしてこなかった。
そこで去年の5月から、一定の検察審査会の決定における起訴に強制力を付与した。その典型的な事例が、明石市の花火会場での警備不手際をめぐる事件で、不起訴とされていた警察幹部に対して「起訴議決」をした件である。
今回の小沢氏への決定もこの規定によるもの。しかし今回の不起訴理由は、身びいき等によるものではない。検察は心の底から彼を起訴したかったのだ。
小沢氏は、検察が嫌う取り調べの全面可視化を推進しようとしていた。何より、師と仰ぐ田中・金丸の両氏の政治生命を奪った検察には敵愾心を有している。その意味から、検察のトップ人事に手を突っ込もうとさえしていたといわれる。
検察組織とすればそんなことは許されるものではない。そこで小沢氏の失脚を企図したようだ。そしてそれに向かって捜査の限りを尽くしたにもかかわらず、検察は最終的に「起訴は困難」と判断せざるをえなかったのである。
では何故のこの「起訴議決」なのか。ここでは検察が設定している起訴基準のハードルの高さがポイントとなっている。
すなわち従来から検察は、起訴に際しては「確実に有罪が得られる高度の確証がある場合」と高いハードルを設定していた。しかし検察審査会は、そこまでの高度の確証が得られなくとも起訴し、最終結果は裁判に委ねるべきと主張する。これが「起訴議決」の理由である。
ただしそれのみならず、検察審査会は「検察のいう”高いハードル”を前提としても、この不起訴処分は不当」と述べている。
つまり「起訴せよ」とする理由は次の二つである。
① 高すぎる検察の起訴基準は引き下げ、起訴することにより黒白は裁判所に委ねるべき
② その検察の高い起訴基準であっても、本件は起訴すべき事案である
これらはそのどちらが本命なのかがよく分からない。何やら二つは互いに「滑り止め」のような感じもしてくる。
しかし理由の②は明らかに不合理である。(次回に述べるとおり、①も大いに疑問)。その理由は、「最大の専門家集団である検察の判断を、あえて覆すほどの理由はない」という点にある。
「起訴議決書」には、「(~の証言は)信用できる」とか「不自然である」といった判断のオンパレードとなっている。しかしこれらは(検察の結論を否定することを含め)、何とでも判断・解釈ができてしまう事項である。しかし検察審査会は、勝手な「筋読み」は控えなければならない。
したがって、検察が起訴独占権を恣意的に運用していないと思われるものに関しては、よほどのことがない限り、検察審査会の審査の対象とすべきではないと考える。
以上から②の理由は、本件に関しては不合理となる。
つづく