布川事件の再審無罪判決が水戸地裁から24日に出された。犯人とされた桜井氏と杉山氏の二人が「無罪」であることは、今までの流れから明らかであった。
したがって判決の関心は、どのようなレベルのものが出されるかであった。そしてその結論は「失望」というより他なかったのである。
この事件が有罪とされていた根拠は、「自白」と目撃者の証言の二つのみである。犯行現場には二人の指紋や毛髪は出なかった。
その一方、二人が無罪であることを示す証拠は多数あった。別の目撃者による「杉山さんではない」とする証言。犯行現場に残された真犯人と思われる第三者の毛髪の存在。自白を録音したテープでの、11カ所もの不自然な録音中断等である。
しかしこうした無罪を示す証拠は、すべて検察の手で隠蔽されていた。それを弁護団らが丹念に存在を証明し、証拠開示にこぎつけていった。そしてそれが開かずの扉とされた「再審開始決定」に結実していたのだ。
とはいえ裁判長が指摘した無罪の決め手は、「捜査段階での「自白」の内容が一貫性を欠いており、捜査官の誘導により作成された可能性」であった。
つまり隠蔽されたそれらの証拠がなくとも、自白内容を丹念に調べさえすれば、これが冤罪であることが当初から分かるはずだったのである。
要するに、警察ににらまれたら最後、警察の強要による「自白」とこれも強要の目撃証言だけで、裁判所によって簡単に無期懲役等にされてしまう。
自白内容に矛盾が内在していようが、他に無罪の証拠があろうがダメなのだ。この国は本当に恐ろしい国なのである。
司法の最大の役割は、国民にこうした恐怖を無縁のものとすることにあるはずである。それには裁判所が、警察・検察にこうしたでっち上げを許さないことである。
しかし実質的にミエミエの権力犯罪があったと裁判所が認定したこの布川事件においても、裁判所は警察・検察を批判しようとしない。この点は、二人も「腹が立つ」と判決直後に強く批判している。
つまり裁判所は、こうしたでっち上げの防止を行うつもりがない。もっといえばこれを容認しているに等しいのである。
それも当然で、二人を有罪とした確定審は、今回無罪の決め手とされた「自白調書」を信用してのものだった。つまり検察等を批判すると、「ではそのデタラメな検察を信用した裁判所はどうなんだ」と、矛先が裁判所に向かって来よう。
イヤそもそも、裁判所と検察は「同じ穴のムジナ」。一心同体の身内を批判するのは気が引ける、というわけなのである。
しかし何度も本欄で指摘しているとおり、裁判所が容認するから警察・検察がこれをやる。裁判所が自白の強要をチェックし、証拠の提出を命じ、証人の本心を見抜くべく務めれば、検察等はデタラメのやりようがなくなる。
逆に、裁判所が何をやっても認めてくれるからこそ、警察等が無茶をする。その典型がこの3月に本欄で詳しく紹介した舞鶴事件。布川事件と構図がうり二つというべきこの事件に、今月中旬に、無期懲役の判決が出されているのだ。
こうしたデタラメが今日に至るも連綿と続いている。むろんその元凶は、これを許し続ける裁判所である。そして上記のとおり、その諸悪の根源ぶりが布川事件無罪判決にしっかり出ていたのである。
ところで読売新聞はこの件につき、元検事である土本武司筑波大教授のコメントを載せている。これがものすごいのだ。
曰く”時代の波は検察に厳しいと感じた。(今まで信頼を得てきた検察が)大阪地検の証拠改竄事件で信頼を失ったが、今回の判決はまさに今の検察への評価を象徴するものだ”。
一体どういう認識をしているのか。布川事件では、単に検察の化けの皮がはがれてきただけの話ではないか。
どうやら彼は、”時代の波さえ悪くなければ、自白の強要も証拠の隠蔽も「検察の信頼」の名の下にみんな許されるはず”と言いたいようだ。
この土本なる男は、検察OBとして常にマスコミから意見を求められている。その彼が体裁をも顧みずに、この「検察の驕りの象徴」ともいうべき発言である。検察という組織もここまでダメかと、あきれたしだいである。