福井女生徒殺害事件の再審決定に際して、読売新聞は2日、「検察は証拠の徹底開示を図れ」とする社説を掲げた。
再審決定は、再審請求審になって初めて開示された多くの証拠の存在が大きかった。これらが当初から開示されていれば、当初から無罪となった可能性が高いからだ。
社説は、「検察の弊習ともいうべき証拠隠しは極めて問題」という。さらに「そもそも税金と公権力を使って集めた証拠は、真相解明のために役立てるべき「公共財」だ。検察が独占してはならないことを肝に銘じてもらいたい」と力説する。誠にごもっともである。
しかしこんなそもそも論など、検察とてとっくに分かっている。検察が聞く耳を持つはずのないこの大新聞のお説教は、読者に向けてアリバイ的に行っているに過ぎなかろう。権力ベッタリのマスコミは、検察の証拠隠蔽をまじめに批判する気などさらさらないのである。
仮に社説が本気で検察に証拠開示をさせようと思ったら、こう言わなければならない。「裁判所は原審で何をやっていたのか。何故証拠開示命令を出さなかったのか」。
現に社説は、「(今回も検察は)弁護側の請求に応じようとせず、裁判所の勧告があるまで証拠を開示しようとしなかった」と的確な指摘をしているではないか。要するに、証拠の開示がなされるかどうかは裁判所の胸一つなのである。
すなわち検察は、出したくない証拠の提出に関しては必死に裁判所の顔色を見る。そこで「出さないと不利」と思えば出すはずだ。つまり検察が証拠開示をしない理由は、裁判所が「出せ」と言わないまま、「出さなくともいいよ」という顔をしているからである。
例えば飲酒運転の取締りで、警察が極端な飲酒のみを対象とし、一般の飲酒運転を許容したらどうなるであろうか。むろん飲酒運転は蔓延するに違いない。
また納税が概ね適正に行われているのは、国税当局がしっかり脱税を摘発しているからである。警察も国税も不正の取締に強い権限が付与され、かつそれをほぼ適正に行使しているからこその、治安であり納税なのである。
裁判所もこれと同じである。裁判に関してあらゆる権能を与えられている裁判官が、当然に発するべき証拠提出命令を出さない。これは飲酒運転の取締を放棄した警察と同じである。これでは飲酒運転と同様に、不当な証拠隠蔽が蔓延するに決まっている。
以上のとおり、検察の不開示等による証拠隠蔽に関しは、裁判所が全面的にその責めを負わなければならない。裁判所がなすべき当然の訴訟指揮を行えば、冤罪の激減をはじめ刑事訴訟は一気に改善されるのである。
ちなみに読売の社説について言えば、警察が本来の取締をやろうとしない中、ドライバーに対して「飲酒運転をやめるべき」とのお説教をしているに等しい。むろんこの場合の社説は、「警察は飲酒運転をしっかり取締まれ」でなければならない。
結局のところ、このような「裁判所批判のタブー視」のようなものは打破していかなければならないのである。