最高裁は13日、高裁に一審判決を尊重すべきとの初判断を示した。「二審は一審の事後的な審査に徹するべきで、一審判決を破棄するには、その事実認定が不合理であることを具体的に示す必要がある」というものだ(裁判官5人全員の一致)。
「今さら」と思わないわけではないが、この判決は大歓迎である。

この判断は、裁判員裁判での一審無罪判決を高裁が逆転有罪とした覚醒剤密輸事件につき、最高裁が無罪判決を出すに際してのものだ。
そして高裁が単なる「事後審」に徹する必要性は、「裁判員制度の導入で強まっている」としている。

何度も繰り返すが、刑事事件の一審有罪率は「99.9%」。実は、奇跡的に無罪判決を得ても、さしたる根拠のないまま、そのかなり多くが二審で逆転有罪とされてしまっていた。

覚醒剤を成田空港に持ち込んだとされるこの密輸事件は、その典型である。争点は、中身が覚醒剤であることの認識の有無だ。むろん被告は否認している。
一審は「被告の弁解を信用できなくはない」として無罪とした。しかし高裁は、「被告の捜査段階の供述は変遷していて信用しがたい」で、懲役10年とした。

この種の事件は、持ち込み依頼が海外でなされるため決定的な証拠はない場合がほとんどだ。となれば被告の反応やその後の供述のみで判断することになる。本件もそれらをじっくり審査した一審が、「まあ信用してもいいだろう」と無罪判決を出していた。検察の有罪立証が不十分なのだから、当然の結論である。

ところが記録を読んだだけの高裁が、「いや俺はそうは思わない」と覆してしまった。むろん新たな証拠や根拠が出てきたわけではない。
だからこそ最高裁が、”そのような「見解の相違」で、軽々に一審判決を覆してはならない”という、当然の指示を出したわけである。

従来は、高裁のこうした「逆転有罪判決」がかなり横行していた。おまけに「逆転有罪」を出された一審判事は、かなり人事考課で減点されてしまう。
だから一審判事は、「とにかく有罪にしておけば間違いない」と、ひたすら有罪判決を出す。有罪判決が二審で覆されても人事考課には影響ないからだ。

一方、無罪判決を出そうとするには、高裁に覆されないように証拠収集や理論面でガチガチの判決文を書く必要がある。
しかし多くの判事はその実力も根性もない。力量等があっても、仕事に追いまくられる判事にはその余裕がない。これが「一審有罪率99.9%」の大なる理由となっている。

こうした精神的な構造は、検察庁をはじめとする各役所の意向に逆らいたくないという、裁判所全体の「御身大事」の発想に起因する。とりわけ検察は、無罪判決を自身の敗北と認識している。
だから無罪判決を出さない判事が出世する。高裁にいる判事は、その成果によるケースが多かろう。これでは逆転有罪判決が多くなるに決まっている。

やや余談だが、これらに関しても読売新聞はおめでたい解説記事を書く。曰く「判事は従来、供述調書を読み込むことによって、犯罪者の真意を見抜く「精密司法」に徹してきた」。
一体どこが「精密」なのか。供述調書の多くは捜査当局の作文なのだ。こんなものをいくら読んでも真実など分かるはずがない。

もう一つ、「高裁が一審の破棄に過度に慎重になれば、日本の司法制度の調書とされる誤判の少なさに疑念が生じかねない」。
「誤判が少ない」には驚いた。検察らは人事考課を意識して、とにかく罪を重くする供述調書作成に務める。それを根拠として出される判決など誤判だらけといえよう。むろん氷山の一角としての冤罪も続発している。

いずれにしてもこの最高裁判決は、無罪判決を出そうとする際の一審裁判官を大いに勇気づけることになるはずだ。忘れ去られている「疑わしきは被告人の利益に」の大原則も浮上しよう。

そのせいであろう、この判決に検察側が大きな衝撃を受けているという。これは判決の重みをよく示している。
この最高裁判決は、堕落しきった裁判の改善に向けて大きな一歩を踏み出したといえるのである。