「自殺につながるいじめはなかった。学校側のいじめを隠蔽したとする証拠もない」。7年前に自殺した中学一年生の両親が、「自殺はいじめが原因」として北本市や国に損害賠償を求めていた、東京地裁の敗訴判決(7月9日)である。

私はかねてから「諸悪の根源は裁判所である」と確信している。そしてこの「諸悪」の大半を、行政といった強い者が出している。薬害、デタラメ年金、捏造冤罪、裏金、天下り…。今日の原発事故問題などその最たるものであろう。

ところが裁判所は、自らの保身と無能(常識や判断力の欠如)から、とにかく強い者を勝たせる。だから諸悪がはびこっていく。
逆に裁判所が「悪い者を悪い」という当然の判決を出していれば、役所等はその判決を恐れて悪さができなくなる。そしてこの判決は「諸悪の根源」ぶりを歴然と示している。

その典型は、この判決が全国の学校等に「いじめは放置してもかまわない。仮に問題が起きても隠してしまえばいい」と認識させてしまう点である。

いじめ封じの特効薬は、教師・学校による「いじめは絶対に許さない」とする毅然とした対応・行動である。生徒は教師らの顔色を見て動く。教師らのいじめへの本気の「怒りと行動」が示されれば、そうそうできるものではない。

ところが文科省や教育委員会・教員等による「教育ムラ」は、いじめ封じに動こうとはしなかった。
そもそも「ムラ」とは、構成員が楽をするための存在である。だから「教育ムラ」が、そんな面倒なことをしようとするはずがない。そして自殺等の問題が発生すれば、仲間で隠蔽する等により構成員が処分されないように助け合うわけだ。

いじめは卑怯といわれるが、こうした教師らの行動はその何倍も卑怯である。生徒はそれを教育の場で日々見せつけられているのである。

とはいえ教育ムラは裁判が怖かったはずだ。だから彼らはこの判決にさぞや安堵したであろう。なにやらこれは「いじめの放置・隠蔽」推奨判決にさえ見えてくる。

さて少しこの判決を考えてみよう。
確かに損害賠償請求訴訟では、原告側に違法の存在についての立証責任が課せられている。そして判決は、その立証が不十分であると判断して原告敗訴としたわけである。一見もっともらしい。

しかし立証が十分かどうかなどは、裁判官の胸一つである。事実、法廷に提出された生徒へのアンケート結果は全部黒塗り。破棄されたものもあったという。
常識からすればこれは隠蔽以外の何ものでもない。だから裁判所は「黒塗りをやめよ」と命じさえすれば、いじめの有無ははっきりしたはずなのだ。

つまり裁判所は、初めから学校側を勝たせる気でいた。そしてそれに好都合な訴訟指揮をして、もっともらしい判決文を書いたに過ぎない。こうすれば判事の御身は安泰。実はここにも歴然たる「裁判所ムラ」が存在するのである。

ところで、ここまではいつもの行政訴訟の風景である。ところが今回はそれらとは状況がやや異なるのではあるまいか。
すなわち「裁判所ムラ」の発想に立ったとしても、この判決では原告を勝たせてもよかったように思う。いやそうしたレッドカードでなくとも、せめて強烈なイエローカード程度は出すべきだったであろう。

この原告全面敗訴の判決では、いじめを受けている者を絶望の淵に追いやってしまう。さらには「我が子がいじめを受けるのでは…」と心配する極めて多くの親御さん等も失望させてしまう。
なにせいじめは全国に蔓延している。現に今も滋賀県で深刻な問題が進行中なのである。

このタイミングで、裁判所が教育ムラに強烈なイエローカード(レッドであればなお結構)を出す。となると全国の親御さんは「さすが裁判所」と拍手喝采となろう。何より教育ムラのいじめへの対応が引き締まる。
ついでに言えば、教育ムラはそれほど腕力が強いとも思われない。この事案でなら被告にひと太刀浴びせても、判事のダメージは大きくはないだろう。

その一方で、多くの冤罪事件の発覚等により、警察・検察のみならず裁判所の判決も矢面に立たされつつある。従来までは何とか保っていた裁判所の「権威」が揺らぎかねない流れとなっているのだ。

こうした中での「イエローカード判決」による、裁判所への信頼性の一気の回復。東京地裁はこうした大チャンスをなぜ逃してしまうのだろうか。
理由は簡単。それは判事の無能に求められる。つまり彼らにそうした社会の動向を見る目がないからである。だから今回も一般の行政訴訟として、いつもどおり「とにかく役所側を勝たせる」とする判決を出したわけだ。

こうした無能としか思えない裁判官の対応ぶりは、いじめ問題にとどまらず、全般的なこの国の将来に大きな影を落としているのである。