前回、卑劣なスラップ(恫喝・口封じ)訴訟を紹介した。すなわち、役所といった強い者が提起する、役所等を批判する市民等への嫌がらせや黙らせるための訴訟である。
そもそもこんな訴訟は裁判所が毅然と却下すればいいはずだが、彼らはそれをやろうとしない。そしてその無気力・無能ぶりがつけ込まれた形になっている。
その結果、大組織による嫌がらせ目的の裁判が野放しとなり、市民らの切実な主張が潰されているのだ。
しかし裁判所に「社会常識とやる気」さえあれば、米国で定められているような反スラップ法などなくとも、スラップ訴訟を門前払いにすることができるのではあるまいか。
ズバリ、このような不当きわまる訴訟は「権利の濫用」であるとして、却下・門前払いしてしまうのである。その上で国会等に、反スラップ法の研究・制定を促せばよい。
しかし裁判官には「社会常識とやる気」の双方が存在しない。彼らは、これが社会正義にいかに反しているか、また弱者がどれだけ苦しんでいるかなど分かっていないし、分かろうともしない。
そもそも彼らの得意技は、強い者を勝たせるための法のご都合主義的運用である。それは行政訴訟で私がゲップが出るほど経験させられている。だから彼らは、強い者による裁判を起こす権利を自ら制限しようとするとは思えない。
また裁判所は、社会常識から乖離した「要件事実」論を振り回す。これは法律の適用要件のみを重視し、逆にその事実の背景にある「事情」を軽視・無視するという考えである。
たとえば教師が生徒にビンタを食らわしたとする。するとビンタが暴行の要件事実を構成する。その事実が立証されれば審理はほぼ終わってしまう。
つまりそれが教師の憂さ晴らしであろうと生徒を思うあまりであろうと、そのような「事情」はほとんど考慮しない。「要件事実」論は審理・判断の手抜きとしか思えないのだ。
だから非力な住民が工事車両等を多少妨害したとしても、「それは原発や基地拡張反対の手段として容認される余地があるのではないのか」、といった常識的発想は裁判所にはない。審理の対象はあくまで妨害行為があったかなかったかにある。原発等による公共の利益や社会的意義といった、背景にある高次の「事情」などまるで考慮しないのである。
こう考えてくると、強者にとってスラップ訴訟は大変な武器になる。むろん彼らからみれば裁判費用などたかがしれている。
また多くのビジネス優先の弁護士は、「社会正義」にお構いなしに喜んでこれを受任しよう。今後スラップ訴訟は急増するのではあるまいか。
しかしこんなものの存在を許すわけにはいかない。したがってなんとかしてスラップ訴訟を防止しなければならない。とはいえ法律業界や権力側に近い大マスコにはあまり多くを期待できそうもない。
となるとまずは卑劣なスラップ訴訟の存在を世に知らしめることからのスタートとなる。その際には、反社会性を徹底的に追求しておきたい。そして見識のあるメディア等で世論を喚起しまた論議を深めていくことだ。こうした地道な行動を粘り強く行うことが求められよう。
いずれにしても、このような卑劣なスラップ訴訟などに屈っするわけにはいかないのである。