本日(12月10日)鹿児島地裁から、死刑求刑事件に無罪判決が出されました。被告人が終始無罪を主張していた事件の裁判員裁判です。
既に何度も述べているとおり「刑事事件の有罪率99.9%」。被告人が否認している事案でさえ有罪率は優に97%を超えています。
ですから今までの裁判であれば、この事件も間違いなく死刑判決が出ていたはずです。事実、否認の死刑求刑事案での一審無罪判決は、1975年以降で4件目に過ぎないとのことです。
今までの裁判のほとんどすべては、検察官の言いなりの八百長ともいうべきものでした。つまり、怪しそうな人を適当に犯人に仕立て上げ、強引に「自白」させたような事案であっても、みんな有罪判決を出してくれたわけです。
そうであれば、警察も面倒な物証の追及はほどほどにするでしょう。そして犯人が挙がらなかったら、こうした「苦し紛れの奥の手」を使うわけです。事実、足利事件をはじめこの種の事件は枚挙に暇がありません。
こうした八百長裁判は、裁判官の人事を壟断する最高裁事務総局の指示によるものです。いやそれのみならず、裁判官の次のような浮世離れともいうべき認識にも原因があったようです。つまり「検察官は悪いことをするはずがない」とか「やってもいない人が自白をするはずがない」です。
だからこその一般人による裁判員裁判なのです。ただし一般の人は、ここで私が述べているような「過激」な認識はお持ちではないでしょう。それでも常識人がこうした裁判を見れば、その本質は分かるはずです。
そして本日その予想どおりの判決が出ました。まさに歴史的な裁判員裁判の判決です。その存在意義がみごとなまでに示されました。私の待ち望んでいた判決です。
ところで念のため申し上げます。この無罪は、「疑わしきは罰せず」とする刑事司法の原則に基づいたもの、と解説されています。それはそのとおりなのですが、それではともすると、この被告人白浜氏は「未だにかなり疑わしい」という理解がなされてしまいます。
そもそも、警察・検察の側は被疑者を拘束し捜索や取調べを強制すること等ができます。捜査側がこうした強大な証拠収集力等を行使した結果として、被疑者を逮捕しています。
したがって検察側は、その犯罪を「通常人なら誰でも疑いを差し挟まない程度に真実らしいとの確信」を与えるレベルまでに立証しなければならないこととされています。これは当然のことです。逆に被告人側は、無罪を立証する必要はありません。そもそも逮捕されてしまっている人にそんなことができるはずはありません。
ここでは中身には触れませんが、この事件をみる限り、警察が先の「苦し紛れの奥の手」を使った可能性が濃厚です。つまり白浜氏は「疑わしき」に該当するようには思えません。逆に「疑わしきは警察の捜査」というべきでしょう。
いずれにしても、この判決は今後の裁判の動向を大きく左右することが予想されます。すなわち、警察による「苦し紛れの奥の手」はもう使えそうになくなるのです。
この国の警察・検察は、デタラメともいうべき側面を有しています。その最大の理由は、裁判所がそのデタラメを許してきたからです。
しかしこの歴史的裁判員裁判の判決によって、警察・検察のあり方は、根底からの変更を迫られるでしょう。
本日は、この国の将来に一筋の明るい光を見る思いがした次第です。