前回の「証拠改竄等、検察の腐敗まみれぶりを暴いたものは?」の項のつづきである。今回は、前回の末尾で述べたとおり、「いかにすれば検察・司法を革命的に是正することができるのか」がテーマである。

とはいえこの答は極めて簡単。検察の腐敗の原因となっている「裁判所の検察の言いなりぶり」をやめさせればいい。つまり裁判所に常識的かつ真っ当な裁判をやらせるだけの話である。

具体的にいえば、裁判官は公判の場で自白を翻した人の話をしっかり聞く。検察側の証拠の的確性を吟味する。弁護士側が要請した証拠は原則としてすべて提出させる。また「証拠隠滅の恐れ」等を常識どおりに解釈した上で、検察の勾留請求を的確に判断する等々である。
さらには、自白の強要や証拠の隠滅・偽造等が行われたと裁判所が判断した場合には、判決文でその点を明快に指摘する。それにより警察や検察に対して、そうした許されざる違法を行った者への厳しい追及を促すのである。
裁判官にこれらをまともにやられれば、検察は危なくって「でっち上げ」などできなくなる。こうした当たり前の対応をするだけで、検察の体質はほぼ一変するのである。

では裁判所はなぜ、今まで検察の言いなりの「八百長裁判」に走っていたのか。これを極めて簡単にいうと次のようになろう。

種々の理由によって彼らは、人事を中心に最高裁(事務総局)にがんじがらめに締め付けられている。事務総局の意向に反すると、任地、給料、職位等で強烈な差別を受ける。
したがって「ヒラメ判決」(ヒラメの目は体の上に付いている。つまり上ばかり見るという意味)という用語に象徴されるとおり、彼らは事務総局の意向どおりの判決しか出そうとしない。そうしないと飛ばされてしまうのだ。

事務総局は裁判所の組織防衛のために、中央省庁等の強いの者の味方をさせる。とりわけ身内ともいえる検察庁には別格の思いを寄せる。したがって検察が黒星と認識している無罪判決は出そうとはしない。
もっともそれだけではないらしい。裁判官は仲間でもある検察官を、自分たちと同じ「極めて優秀な人」としてみている。だから「検察官が言っていることはすべて正しい」といった思い込みもかなりあるようだ。

その挙げ句が、検察が起訴した一審判決の有罪率が「99.9%」(否認事件でも97%超)という数値である。
理屈など何とでもつけられる。とにかく有罪あるのみ。起訴された刑事被告人には、裁判所は絶対といっていいほど無罪判決は出さないのだ。まさに八百長裁判。これがわが国の司法の実態なのである。

ではこうした中にあって、「裁判所に常識的かつ真っ当な裁判をやらせる」にはどうすればいいのか。実はこれもそう難しいことではない。

それにはまず世の中が、従来のこうした裁判の不当性を十分認識することである。そしてその上で、今後は彼らの審理ぶりや判決文に批判的に注目するのである。
何故か今までは、彼らへの論評や批判がタブー視されていた。だから結果として、デタラメともいうべき判決がまかり通っていた。
しかし今後は、裁判所の情けない実態が社会に認識される。その上で常識外の訴訟指揮や不合理な判決がまともに批判の俎上に載せられてしまう。となればもう裁判官は妙なことができなくなる。

実は裁判所には、権威はあっても権限・権力はない。警察や検察であれば、かなりの不祥事があっても自身の腕力で抑えつけることができる。しかし裁判所はそのような力はない。ついでにいえば天下り先すらほとんどない。
その一方、裁判所は(自分に自信がないこともあって)世論の動向を大変に気にしている。したがって裁判所の情けない実態が世に知られ、各裁判官が世間から冷ややかに見られるなどということは、誇り高い彼らには耐え難いのである。

となれば彼らは、世の中の批判の目に耐えうる裁判をやらざるをえなくなる。また事務総局の指示が不合理であれば、今までは言いなりだった裁判官もこれに抵抗を示すこととなろう。

こうした動きにより、「諸悪の根源」ともいうべき裁判所は急速に変わっていくはずだ。となると行政訴訟が変わり行政も変わらざるを得なくなる。これらにより、世の中は一変するものと確信するのである。