10月20日の新聞に、櫻井よし子氏を代表とする国家基本問題研究所(国基研)の意見広告が出された。
考え方は多少は異なるもの、私は日頃から氏の言動には触発され、氏を大いに尊敬している。しかし今回の意見に関しては全面的に反対せざるを得ない。

意見広告の要旨は次のとおりである。
「原発事故は二点を教えてくれた。事故は原発管理の杜撰による人災だったこと、ほぼ無事であった女川原発が示すとおり原発技術は優秀だったことである。
したがって今日本がなすべきことは、事故の構造的原因を究明し、より安全性を向上させた上で原発を維持することである。

原発の技術的安全性は飛躍的に高まっている。再生可能エネルギーとともに、国際社会において、原発関連の技術や管理システムを高度に牽引していくことこそ、国益となる」。

この意見への最大の反対理由は、「事故の構造的原因の究明」はこの国の構造自体をひっくり返さない限り不可能、という点である。
この事故を一言でいうと、「原子力ムラ」やその周辺の人たちが引き起こした不祥事といえる。具体的には、関係する役人、政治家、電力会社やメーカー、学者、マスコミ等の、この国をリードする層の人たちである。

一方、事故原因の究明には当然に関係者の責任問題が生じる。事故の重大性を考えれば、少なくとも数百人規模の人の辞任になろう。こうした身を切られるような厳しいレベルの原因究明を行わない限り、本来の「安全性の向上」など望むべくもない。

しかしこうした層の人は、責任を負うことを極端に嫌う。そして役所を先頭に、責任問題が生じないようなシステムを作っている。逆にそうだからこそ、あれだけの大事故を引き起こしながら、実質的には未だに誰も責任をとっていないという、驚天動地の総無責任体制が構築されているのである。

この無責任体制は、原子力ムラに止まるものではない。たとえば国家財政を破綻させた財務省、薬害を連綿と続け年金をダメにした厚労省、冤罪を続発させ裏金にまみれる警察・検察庁。こういう行政のデタラメは、何をやっても責任追及がなされないことによる、使命感を喪失した弛緩のなせるわざである。

ただし財政や薬害といった問題であればまだ致命傷にはならない。しかし原発ともなると、その失敗の被害は福島のようにとてつもないものとなる。
にもかかわらず、彼らには責任追及を伴わない体裁だけの事故原因の究明しかできない。それ故に、原発はこんな連中に二度と任せるわけにはいかないのである。

二点目の「原発技術が優秀」も全く当てにならない。米国からの直輸入で原発をスタートさせたものの、原発の運転は予想外に難しかったという。そしてその困難さは未だに解決されていない。
したがって、放射能漏れを含む多くの事故発生を引き起こす。これによる著しい稼働率の低下は、その防止のための恒常的な事故隠しにつながっているという。

いやそもそも、現時点に至るも高レベル廃棄物の処理場すら決まっていない。低レベルのものも借り置き場にうずたかく積まれている。さらに原発の廃炉すらできない。「そのうち何とかなるだろう」とスタートしたものの、全世界が未だにこの問題に頭を抱えている。
これらに要するすべての費用を計算すれば、「有利な経済性」など極めて怪しいものとなろう。

以上を考えれば、脱原発批判についての国基研の主張は表面的といわざるをえない。国基研にはむしろ、「国をリードする人たちにいかに責任感・使命感を持たせるか」という、国家の基本問題についてご研究いただけたらと思う。