群馬県桐生市での痛ましい小学6年生のいじめによる自殺。学校側はいじめの存在すら認めようとしなかったが、臨時の市教育委員会が2週間を経過した昨日、やっとこれを認めた。

当初から父親は「(いじめをやめさせ欲しいと)10回以上も学校に相談したが、何の対策もなかった」と訴えている。まして自殺する2日前には、教職員に「仲間はずれの給食」を、大声で泣きながら訴えていたという。いじめの存在は明々白々だったのである。

実は、文科省は事件発生の2日後に、「遺族に誠実に対応することや、調査を徹底すること」を県教委に指示している。おそらくこうした文科省からのプレッシャーがなかったら、いじめの存在自体をも「ほおかむり」していた可能性も少なくない。

しかし二週間も経って初めて認めた内容は、「我々は気付いていなかったが、今になって調べてみると、いじめがあったことが分かった」にすぎない。
むろん「十分認識していた上での放置」を認めると、教委や学校の大きな責任問題に発展する。とにかく保身ありきなのである。

しかし何より許し難いのは、教委・学校側が、いじめが自殺の原因であることを明確にしない点だ。
彼らはいう。「いじめが直接的な原因かは分からなかった」。「明らかな因果関係は認めることはできない」。おそらく、遺書等の明白な証拠がないのだから「分からない」で逃げ切ろうとしているのであろう。

しかしいじめが原因でなければなぜ自殺したのか。自殺の2日前に、いじめのつらさを泣きながら教職員に訴えていたのだ。誰がどう考えても、「いじめによる自殺」であることは歴然たる事実である。

仲間はずれにされて毎日1人だけで給食を食べる。このつらさはいかばかりであろう。ましてやそれを思うご両親の気持ち…。これらを思うと、不覚ながら私にも涙がにじむ。

情けないことに、既に今までこうしたいじめによる自殺が何度も起きている。その理由は簡単。文科省以下に、これを本気で根絶しようとする気がないからである。
となるとここでの最大の課題は、「こうした不幸な事件を再発させないためにはどうすればよいか」にある。
しかしその答も難しくない。まず、教委・学校の卑怯極まる「因果関係は認められない」などという弁明を許さないこと、そしてこの卑怯を行った者を、教育界から追放することである。

つまりこの事件はまだ終わっていない。そして世論を盛り上げる等により、何が何でも「卑怯者の追放」を実現しなければならない。それはご両親の無念の気持ちに応えることにもなる。
まずはマスコミがこの点につき大論陣を張って欲しい。次に、こんな連中に子供を預けなければならないPTAも動いて欲しい、この際、支持率低下に悩む民主党は、この「卑怯者の追放」に取り組まれたらいかがか。党勢はかなり挽回できよう(むろん自民党が動いてもいい)。

その援護射撃の意味から、「明らかな因果関係が認められない」とする彼らの屁理屈・逃げ口上を封じておきたい。すなわち因果関係に関して、最高裁にはほぼ次のような判例がある。
「訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らし(因果関係を是認し得る程度に)証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであれば足りる」。
むろんこの判決は妥当である。

つまり教委・学校は「一点の疑義も許されない自然科学的証明」がなされていないことを根拠に、「いじめが原因」を不明としている。しかし「いじめが原因」であることは、明らかに「通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得る」ものとなっている。
そしてこれが「訴訟上の因果関係」を論じたものである以上は、それは法的な見解といえる。つまり「いじめが原因」は法的に明白というべきなのである。

今まではこうした「卑怯者の追放」が全くなされていなかった。形式的な処分でお茶を濁してきた。だから同じような事件が繰り返される。今回の教委らもこうした前例を見ているからこその、この卑怯なふるまいである。
逆に「卑怯者の追放」さえ行えばこれが前例となる。一罰百戒。妙なことをすると馘首されかねない。こうした緊張感が教育現場を一気に改善する。むろんいじめへの目も厳しくなろう。

小学校教育で最優先すべきは、ずるいことや卑怯なことをさせない人間を育てることであろう。いくら算数や国語ができても、卑怯な人間であってはどうにもならない。
にもかかわらず、まだ心の純粋さを失っていない小学生にこれを教える側が、絵に描いたような「卑怯」な振る舞い。これではいけない。「卑怯者の追放」は、こうした教育面からも当然の措置なのである。