福井地裁から、感動的な大飯原発運転差止め判決が出された(内容は後述)。これを伝える弁護士の手には「司法は生きていた」の垂れ幕があった。
ここ40年間、行政訴訟における司法は、不当な行政へのお墨付きを与え続けていた。裁判所は行政の守護神。まさに司法は死んでいたのである。

原発に関しては、最高裁の「専門技術的裁量」論が幅を効かしている。裁判官は専門技術的な面は判断できないため、専門家を用意している行政の判断を尊重すべきというもの。
各裁判官はこれを盾に、原告による説得力のある原発の危険性を直視することから逃れていたのだ。

しかし福島原発の大事故は、最高裁に「今後は安全性をしっかり審理すべき」とする改革論を巻き起こしていたようだ。目を覆うべき災害の実態と厳しい世論を前に、判断放棄の行政ベッタリ路線の継続は、こと原発に限っては、司法最大の存立基盤である国民への信頼を失ってしまいかねない。最高裁はこうした危機感を抱いたのである。

裁判官も所詮は役人。自身の地位や立場を強めることを最優先に考える。行政の守護神役を担ってきたのも、その手段に過ぎなかろう。
事実、事故前に出された浜岡原発訴訟の一審判決はけんもほろろの内容だった。しかし事故後に進行する高裁の裁判官の対応はかなり変わったという。彼らからは真摯に実態を学ぼうとする姿勢がみられるようになったというのだ(海渡雄一弁護士)。

事故後初めての判決となる今回の差止め決定は、こうした流れの一環であると考えられよう。今までのいわゆるKY的な「突出した判決」とばかりはいえないように思うのだ。したがってこの樋口英明裁判長も、これまでのように「飛ばされる」ことはないのではあるまいか。

とはいえ高裁でも「差し止め」が認められるかどうかは全く分からない。第一そんなことをすれば、行政側はもちろん自民党政権に致命的な打撃を与える。何といっても最高裁長官の指名権は内閣総理大臣が握っているのだ。

この二審判決の如何は、世論の動向に大きく左右されよう。一審判決への世論の支持が圧倒的に高く、またそれが維持されていれば、名古屋高裁もこれを無視することはできないはずだ。繰り返すが、彼らの最大の拠り所は司法への国民の信頼なのである。

とはいえ政権側は旗色が悪いと思えば、人事権を背景に最高裁を強烈に締め付けるだろう。むろんその前に、御用マスコミや御用学者等を総動員して世論を誘導するはずだ。

実はこの争いは、今日安倍政権が狂奔している強権的政治の是非を問うことに直結しているようにも思われる。原発輸出、秘密保護法、武器輸出解禁、そして集団的自衛権容認への解釈改憲。まさに「戦前を取りもどす」である。

今までこの動きを食い止めることはほとんどできていなかった。しかしこの差止め判決は、これへの歯止めのきっかけ、分水嶺となる可能性をも秘めているのだ。

ところで本文の冒頭で、この判決を「感動的」と評した。その主要部分を簡単に紹介したい。

まず判決は、生存権を基礎とする人格権は全ての法分野において最高の価値を有するのであり、これを訴訟の判断基準とするという。そして次のように述べていく。
「極めて広汎に人格権を奪うものは、自然の大災害と戦争を除くと原発事故しかあり得ない。したがって、人格権より劣後する存在に過ぎない経済活動に基づく行動が、万が一にも人格権を蹂躙する危険性を有するのであれば、これを差止めるのは当然の帰結となる」。

「一般に新技術導入が引起こすリスクの程度が不明であれば、差止めへの判断は難しくなる。しかし原発事故における過酷な実態が福島で明らかになっている。
よって本件訴訟は、原発大事故の危険性が万が一でもあるかどうかの判断が求められている。福島事故後の今日、この判断を避けることは裁判所の最重要の責務を放棄するに等しい」。

こうした前提の上で、判決は大飯原発の具体的な安全性を詳細に検討していく。そして最後に次のように結論づける。
「本原発の安全性は万全ではないという疑いがあるのみならず、確たる根拠のない楽観的見通しにより初めて成立するという脆弱なものに過ぎない」。

以上の判旨によって運転差止めの結論を導いた上で、判決は被告からなされた次の主張に対する判断をも明快に述べていく。
まずは「電気代が上がる」について。「極めて多数の人の生存権・人格権に対して、電気代が高い低いの議論を判断すること自体が許されない」。

次に、石油等の輸入により国富が流出するとの批判について。「これを国富の流出というなど論外。豊かな国土とそこに根を下ろした国民の生活こそが守るべき国富である」。
さらにCo2を発生させない原発は環境面で優れるとの主張には、「福島事故が起こしたすさまじい環境汚染を考えれば、こうした主張は甚だしい筋違いである」。

以上のとおりこの判旨は、事の本質をそのものズバリに突いた明快な内容で、一般常識にもかなう名判決である。何よりこれは、裁判所が有する本来の使命を想起させた正義感あふれたものとなっている。また最後の部分は「目から鱗」というべき説得力をも有している。

我々は、この名判決を従来のような「突然変異」に終わらせてはならない。世論を喚起すること等により、この判決をしっかり支えていかなければならない。それにより世を改善させるべく、司法を確実に生き返らせなければならないのである。