巨人の清武GMが解任された。球団のコーチ人事をめぐる、清武氏の渡辺会長(ナベツネ氏)に対しての捨て身の抗議に対するものだ。
マスコミ等では、単なる巨人の内輪もめとか、日本シリーズに失礼といった次元でしかとらえようとしていないようだ。
しかしこれは球団内部のもめ事の域をはるかに超えている。大読売の土台を崩す蟻の一穴にもなりかねない大変な事態というべきである。
読売はこの国の大言論機関である。にもかかわらず読売には、長年にわたりナベツネ(85才)の強固な独裁体制が続いている。それは社内の恐怖政治と、社外への言論機関の私物化ともいうべき手法により維持されてきた。
この点は、彼が清武氏に言ったとされる次の発言に象徴的に表れている。「お前、俺と争って勝てると思っているのか。読売を敵に回すことになるんだぞ」。
しかし今日の近代的な大組織にあって、このような専制君主のような存在が許されていいのだろうか。各種の監査機関やチェックシステム等も、法的に整備されているはずにもかかわらずである。
繰り返すが読売は報道機関である。この大新聞は日頃、金正日等の独裁体制を鋭く批判する。さらには読者への訓辞すら垂れる。まるで漫画である。
ナベツネ氏が、誰しもが尊敬できる人物であれば分からなくはない。しかし彼は、あの年まで権力にしがみついての傲岸不遜ぶりをまき散らしている。
むろん創業者でも何でもない。中曽根といった政治家をバックに、社長に成り上がっただけというべき人物だ。
どうやら民主主義とは、各構成員がしっかりした存在であることが前提になっているように思う(後述のとおり、法律など全く当てにならない)。功成り名遂げた人は後進に道を譲る。その一方、老害的な人物がいれば周りが引き下がらせる。
余談だが、小泉氏の総理の引き方やその後の身の処し方は、誠に立派であったと思う。あそこまではなかなかできるものではない。
やはり権力には底なしの魅力があるようだ。だからこれにしがみつく気持ちも分かるような気がする。
ここで言いたいのは、「読売内部や関係者等の人は一体何をやっているのか」である。気骨のある人は既に飛ばされてしまい、今はいわば茶坊主ばかりなのであろう。しかしそれにしても、あのような存在を許すなど、あまりに情けないではないか。
その意味から、このナベツネ氏に公然と反旗を翻した清武氏の「蛮勇」は、大きく賞賛されるべきであろう。
しかしどうやら清武氏もミニナベツネといった存在で、人望も全くないらしい。したがって彼のせっかくの「蛮勇」への支持も、いまひとつ広がっていないようだ。
彼は今後は裁判闘争に入るとのことである。しかしこの流れからすると、どのような法的な争いを挑もうと、彼はまず絶対に裁判には勝てないだろう。理由は、裁判所が「強い者を勝たせる」だけの存在だからである。
法律など何とでも言えてしまう。そもそも会社法等は、あのような独裁体勢を許さないようにできているはずではないのか。この点も、いかに法律が無力でいい加減なものあるかの表れである。
つまり我々は、法律や法律家なるものを過大評価してはならない。本来重視すべきは、社会通念・常識である。
とはいうものの、やはりこの「蛮勇」の与える影響は極めて大きい。ナベツネ氏の盤石の体勢に、地殻変動を起こしたといっていい。
ましてや今後始まるといわれる長期の裁判闘争は、現実的な影響を彼にジワジワと与えるだろう。そしてそれは、次の「蛮勇」を強く促すはずだ。要するにこの事件は、ナベツネ体勢の「終わりの始まり」なのである。
それにしても、この事件に関しての「識者」といわれる人の論評があまりにもお粗末である。そのほとんどが、清武氏への批判に終始している。同氏の行動の原因となったナベツネ氏の独裁体制という、はるかに大きな問題への論評から逃避しているのだ。
確かに相手は大読売である。日テレその他にも強力な影響力を有していよう。評論家諸氏が、彼らのご機嫌を損じるのはかなり具合が悪いのは事実だ。
しかし評論家諸氏は、こうしたときにこそキチッと発言することが与えられた使命であろう。読売の社員のようにすぐにクビになるわけでもあるまい。ある程度の損を覚悟しても、ここで気骨を示さないでどうするというのか。情けないの一語である。
以上、ここで最も言いたかったことを末尾で述べたところで、本稿を終わる。