検察審査会の小沢氏への強制起訴決定についての2回目。前回は、強制起訴する2つの理由のうち、②(検察の高い起訴基準であっても、本件は起訴すべき)を否定した。
今回は理由の①(高すぎる検察の起訴基準は引き下げ、起訴することにより黒白は裁判所に委ねるべき)を中心に、この検察審査会決定を考えていく。

確かに①の理由がいうように、従来から検察は、起訴に際しては「確実に有罪が得られる高度の確証がある場合」と高いハードルを設定していた。これを一部では「精密司法」と称している。

のっけから余談で恐縮だが、毎度私が強調する「有罪率99.9%」はこの「精密司法」に負うところも少なくない。しかしいくら「精密」といっても、所詮は人のすること。無罪判決が1,000件に1件以下などあり得ない。裁判所の絶大な協力なくしては「99.9%」の金字塔など打ち立てられるはずがない。
そしてこの「絶大な協力」を当て込むことにより、検察に「でっち上げ体質」が蔓延していったことは、既に何度も述べたとおりである。

話を元に戻す。理由①におけるハードルの引き下げに関して、「起訴議決書」はその末尾において、検察審査会の存在意義につき次のように述べている。
「検察審査会の制度は、有罪の可能性があるのに、検察官だけの判断で有罪になる高度の見込がないと思って起訴しないのは不当であり(中略)、公正な刑事裁判の法廷で黒白をつけようとする制度であると考えられる」。

要するに、「ほとんど真っ黒に近い灰色しか起訴しないという検察の起訴基準はおかしいのであり、ある程度の灰色であれば起訴すべし」という主張である。確かに一理ある考えといえよう。

とはいえ当然ながら検察のいう高い起訴基準も十分合理性を有している。そして長年そうした考え方で起訴が行われていた。
そもそも東京第5検察審査会は全国に100以上ある中のひとつに過ぎない。そのような存在に、検察審査会制度の意義や検察の起訴基準の高さまでを、独自に変更・決定するまでの権能などは与えられてはいない。

同審査会は、「そうではなく、この審査会決定の背景の考え方を説明しただけ」というかもしれない。しかしそんな独りよがりの理屈で起訴されたのではたまらない。
世の中は、検察の高い起訴基準を前提に物事を考える。つまり起訴されただけで、世間はもう「有罪」と考えてしまう。それは「起訴されても”推定無罪”の原則が働く」などという弁明が、いかに空虚に聞こえるかを考えれば分かろう。

結局のところ、小沢氏への強制起訴決定の理由は2つとも不合理となる。したがってこの検察審査会決定は失当と断ずるより他ないのである。
なお愚念ながら、私は小沢氏の弁護のためにこのコラムを書いているのではない。個人的にいえば、あまりに体育会的な小沢氏のやり方は到底好きになれない。政治資金の集め方も、(やむを得ない面もあろうが)いかがなものかとも思っている。

さて以下は全くの推測として述べさせていただく。

ここまで考えてくると、この検察審査会決定にまとわりつく「何かイヤーな感じ」の正体が分かってくる。その結論は、「この決定は、審査補助員なる弁護士1人の個人的見解によるものに過ぎないのではないのか」という強い疑念である。
その背景には、「こうした世の大変な関心を呼んでいる事案でこうした決定を出せば、担当弁護士も注目を浴びるであろう」という事情もある。

おそらくこの弁護士は、密室のような議論の場で根拠らしいものをいくつも提示して熱弁をふるい続けたのであろう。であれば一般人のほとんどは、「そんなものか」と思ってしまうはずだ。
同じ一般人が参加する裁判員制度であれば、被告人側の反論を含め双方の話をじっくり聞くことができる。だから仮に裁判官が強い誘導を試みても、うまくいくとは限らない。また判決が出された後には、裁判員の記者会見も行われている。

既にみてきたように、この検察審査会決定には一般人による本来のバランス感覚が見て取れない。いかにも法律家という人種特有の、思い込み(もっといえば独善)が前面に出ているように思われてならない。
(法の解釈を含め)理屈などは何とでもつく。大切なのは、そうした理屈が世の社会通念・社会正義と合致しているかどうかの吟味である。だからこその一般人の参加なのである。しかしこの決定過程はどこか不透明な感がしてならない。

検察審査会制度は、こうした法律業界のご都合主義的な判断をチェックする極めて重要な機能を有している。しかしその仕組みは、透明化を含めかなり改善を要する部分があるように思うのである。