最高裁での会合で、原発裁判の審理方法に改革論が起きているという。原発訴訟をめぐる研究会で、今後は安全性をしっかり審理すべきというものだ。共同通信による情報公開請求に基づく最高裁の内部資料で、先日これが明らかにされたのだ。
裁判所は従来、専門家の意見を踏まえた行政の判断を尊重するという体裁で、国策ベッタリの原発容認判決を出し続けていた。
「とにかく役所といった強い者を勝たせる」という裁判所の真骨頂。原発訴訟を経験した元裁判官は、これを称して「(裁判に入る前から)判決の流れは決まっていた」と述べている。
こうした中でのこの改革論の浮上。これは福島の大原発事故を踏まえ、「このままでは司法の信頼が揺るぎかねない」との危機感をあらわにしたものだ。
その背景には、安全性を無視した原発再稼働等の原発行政に対する広汎な国民の強い怒りがあろう。原発に関する多くの世論調査結果、さらには止むことのない官邸前デモ等がそれを如実に示している。
この改革論の方向は、安全性への相応の立証責任を電力会社側に求めるといった流れにある。となると原発行政等はかなりの打撃を受けるはずだ。
これに関しての最高裁の研究会の見解を推測するとこうなろう。「その結果として、国等を守りきれない事態になったとしてもやむを得ない。それよりも司法への信頼(つまり自身の安全)を優先せざるを得ない」。
裁判所の権威が地に墜ちれば、裁判官は「ただの人」。そのプライドはズタズタになってしまう。だから自身の安全は守らなければならないわけである。
さて、裁判所が「国等を守る」ことよりも「自身の安全」を優先するという(ある意味当然の)判断は、大きな示唆を与えている(実際に彼らがどこまで改革できるかは、かなり疑問ではあるが)。
「有罪率99.9%」のデタラメ裁判や馴れ合いの行政訴訟も、「司法への信頼(自身の安全)」が大前提となっているからである。
一例として、「被告の無罪を証明するような検察にとって不都合な証拠は、検察側はわざわざ提出する必要がない」とされている証拠開示の問題を考えてみる。
むろんこんな取扱いは論外である。どのような屁理屈を並べようが、常識や社会正義の面からこんなものが通用するはずがない。
ところが裁判所は、現実にこうしたインチキを容認・推進している。したがってこれを広く一般国民が知れば、「司法への信頼」は一気に地に墜ちよう。となるとこれで同じく「改革論」が巻き起こるはずだ。
こうしてその他の多くのデタラメも、広く国民に知らしめることにより、「改革論」を発生させればよい。これらにより刑事訴訟や行政訴訟を大きく改善させる。そしてそれは世の構造を一変させる力さえ秘めている。
もっとも、以上述べたことは、既に各方面から指摘済みの当然のことといえるのかもしれない。しかし今回の最高裁の研究会による、国等をも敵に回さんばかりの改革論。「我が身かわいさ」に基づくこの裁判所の変わり身の速さには、目を見張らされる。
確かに「広く国民に知らしめる」は、実際問題として容易ではないだろう。しかし今回は、その威力をまざまざと見せつけられた。そして日頃の自身の考えの正当性を示すようなこの事態に、少し勇気づけられた思いがするのである。