安倍首相が26日に靖国神社に参拝した。事前に通知を受けた与党の多くの関係者が懸命に反対したが、首相は自身の信条を優先。あの石破幹事長も「もう誰も止められない」とぼやいているという。
むろんこの参拝は到底許されるものではない。
首相は「国に生命を捧げた御霊に哀悼の誠を捧げるのは当然」という。それならなぜそこが軍国主義に薄汚れた靖国神社でなければならないのか。誰もがわだかまりをもたない千鳥ヶ淵戦没者墓園等でやるべきではないのか。
靖国神社はA級戦犯の合祀発覚後に、その参拝が政治・外交問題になっている。首相は「戦犯を崇拝する行為との、誤解に基づく批判がある」という。しかしA級戦犯が合祀されている以上は、その弁解には説得力がない。事実合祀の後は、「国民の象徴」たる天皇も、これを理由に一切参拝をやめているのだ。
いやそれ以前に、靖国神社の存在そのものに強い疑問を感じる。同朋大の菱木教授が「靖国神社は、国民に戦争参加を強く促し、遺族には家族の戦死を納得してもらうための装置」と指摘するとおり、靖国は国民を軍国主義に染め抜く洗脳のための存在であったと考える。
赤紙一枚で戦死覚悟の招集に応じ、戦死の知らせを受けても、他人の前では悲しんで泣くことも許されない。「死んだら靖国で会おう」。「愛する子や夫は、戦死により軍神になって靖国に祀られる」。
今冷静に考えればこれらは「世迷いごと」の類いといえよう。しかしこうした強い洗脳がなければ、一般国民を戦争に引きずり込むことはできなかったはずだ。
繰り返すが、靖国神社は軍国主義的な思想の文字どおり守護神だったのである。
その靖国神社に強いこだわりを持っての首相の参拝。これでは軍国主義の被害者である中国・韓国が怒るのは当然であろう。
確かに従来の両国による、南京大虐殺や従軍慰安婦等に関する誇大批判はいかがなものかとは思う。しかしこの靖国参拝に関する限り弁解は困難であろう。
だからこそ米国も、「近隣諸国の緊張感を悪化させたことに、米国政府は失望している」と、あえて異例の強い調子で首相を批判した。この独りよがりの強行の結果、わが国の立場は大きく損なわれたわけである。
しかし首相は、「中国や韓国の人々の気持ちを傷つける気は全くありません」などとノーテンキにいう。これは相手をぶん殴っておいて、「相手を傷つける気持ちはなかった」と言っているに等しい。
さらにいえば、今も一部の日本人の心には靖国思想が脈々と流れている。戦死者の遺族らの一部は、未だに靖国思想にすがっているのであろう。そしてこの参拝は、そうした「保守層」の期待に応えたという側面をも有している。
ちなみに平成8年に、現職首相として靖国参拝をした橋本龍太郎氏は、「だってあそこで会おうと約束したんだ」と、追悼したのは戦死したいとこであり戦争指導者ではない,と釈明したという。
まさに靖国思想そのもの。平成に入っても一国の首相が平気でこんなことを言っている。しかもその発言が特段問題になっていないのである。
とはいえそうした保守層は明らかに少数派である。まして今時そのような軍国主義的発想は許されない。
にもかかわらず安倍内閣は秘密保護法の制定、集団的自衛権行使への傾斜、武器輸出三原則の緩和等々、「戦争のできる国」を目指し、かつ着々とそれに近づいているかのように思われる。
こうした中での今回の靖国訪問。これでは我々はどこに連れて行かれるか分からない。今後の政治動向を注視しつつ、しっかり発言していかなければならないように思うのである。