この1日に、耳かき店員殺人事件に関する死刑求刑裁判員裁判の判決が出された。予想どおりの無期懲役。判決理由を含め、ほぼ26日付けの本欄 「耳かき店員殺人事件 初の死刑求刑裁判員裁判に思う」 で予想したとおり内容であった。
裁判員が明らかにした多くの感想から分かるとおり、裁判員は立派にその職責を果たした。むろんそれらの判断は極めて妥当である。これを導いた裁判員のご努力に対して、心から敬意を表したい。
ところで今回の報道をみる限り、「裁判員は、職業裁判官のレベルにそう劣るわけではないことが明らかとなり一安心」といった論調に終始している。
テレビも元裁判官に、「職業裁判官でもこうした結論だったと思う」などと語らせる。つまりこの判決が「合格点」に達していたというわけだ。
何をバカなことを。裁判員制度は何のためにスタートしたのか。それは「裁判に市民感覚を導入する」にあったはずだ。その意味から、前回の本欄の末尾に、私は次のように記した。
“さて裁判員らは、来月1日の判決に向けて4日間の評議を行う。おそらく裁判員は、自身の価値観に基づき、様々な観点からこの難題に必死に取り組むものと思われる。
おそらく裁判官は、(彼らもそれなりにやってきたとは思っているのであろうが)このレベルまでの懸命な検討や審理をやった経験はほとんどないと思う。したがって裁判官には、こうした一般人の発想や考え方を謙虚に学び、今後の裁判に生かしていただきたいと思う。それでこその裁判員制度だからである”。
しかし今回の報道には、いわゆる「識者」の発言を含め、「裁判官は評議を通じて裁判員の発想に学ぶべし」といった意見はどこにもなかった。
こうした「裁判官へのタブー視」(もっといえば裁判官への甘やかし)が、硬直的とされる裁判所の判断を許してきたのだ。そうした反省のないまま、なされるべき指摘から逃げてしまったのではどうにもならない。
ではこの件が従来の職業裁判官だけの審理であれば、どうであっただろうか。おそらく永山基準に当てはめつつ、とりあえずはああでもないこうでもないとやるだろう。その上で裁判長が方針を出す。他の二人は(違う意見であっても)黙ってこれに従う。つまり実質的な合議はなされない。
その結論にしても、控訴されてもこの判決が取り消されないことを第一義とするはずだ。こうして判決は血の通わないものとなる。
確かにそれが死刑判決となれば、多少のプレッシャーがかかるだろう。しかしそんなことを気に病んでいたら、忙殺されている他の裁判ができなくなるうという現実もある。
しかし裁判員は、前述のとおり「自身の価値観に基づき、様々な観点からこの難題に必死に取り組」んだ。彼らの感想がそれを如実に物語っている。低次元の裁判官とはレベルが全く違うのである。
その意味から一点指摘しておきたい。検察等の主張では「被害者に何ら落ち度はなかった」という。裁判もこれを前提に進んでいたようだ。しかしはたしてそうか。
耳かき店員のところへ行けば、若い女性が膝枕で耳を掃除してくれる。この癒しを求めて男が高い金を払う。であれば「うぶ」な男が、被害者のようなかわいい女性に「お熱をあげる」のは当然であろう。むろん経営者は、それを見越してこうした女性を雇っている。
となれば中には、こうした突拍子もないことをする男が出てくる可能性はゼロではない。酷な言い方かもしれないが、仕事がやや「お下劣」であった以上、「何ら落ち度はなかった」とはいえないように思う。
おそらく裁判員は、(評議の場で意見として出されたかどうかは別として)こうした点もかなり大きな判断材料としたのではあるまいか。その一方、人情の機微に疎い職業裁判官は、このようなところまで頭が回らないだろう。
裁判員制度は、一般市民の法的な判断力アップのためのものではない。あくまで裁判官に市民感覚(もっといえば人の気持ちの理解を中心とする社会通念)を学ばせるためのものである。そのために一般市民が犠牲を払っているのである。
そうである以上マスコミ・メディアは、こうした本来の目的を明示した上で、その達成を期するような論調を展開しなければならない。従来のような「裁判所のタブー視」は許されないのである。