大震災から1ヶ月が経過した。これを機に、原発等の門外漢ながら常識人の発想として、原発の将来を考えてみたい。
私は今まで、地球温暖化を防止するためには、(多少の不安を抱えつつも)原発は必要であろうと思っていた。
しかしもう原発はダメだと考える。事故のこのような実態を見せられは、もはやそう考えざるを得ない。「新たに津波対策を講じれば…」など全く通用しない。今までの不明を恥じる思いである。
その原因はズバリ「原子力村」の存在だ。限られた人で構成される「村」が、外部の批判を一切遮断し、かつそれにより本来なすべき努力を放棄してしまうのである。
原子力村の構成員は、国、電力会社等の財界、学者の三者のうちのごく限られた者である。この「村」の典型は、戦前の陸軍(とりわけその関東軍)にみることができる。
当時既に大きな権力を有する陸軍は、陸軍大学出身のごく限られた者が実権を握った。そして彼らはそこに日本人特有の「利益共同体」を作った。同時に「統帥権」等を理由に、外部からの批判を一切許さなかった。
外部からの批判を遮断上での共同体となれば、その組織が追及すべき本来の任務も手を抜く等の堕落が始まる。具体的にいえば、本来あらゆる面からなすべき戦争への計画・準備等が全く疎かとなる。
そうなると、特に発生しては困ることからは逃げてしまう。その典型がソ連の参戦である。これが発生するとどうにもならなくなるのだ。であれば本来、ソ連に参戦させないような策をとるべきなのだが、「陸軍村」の事情がそれを許さない。
そこでいつの間にか、「ソ連は参戦しない」ことにしてしまう。そして「もし参戦してきたら」という議論を封じ込めてしまうのである。
しかし現実には参戦がなされ、とてつもない被害が出た。さらには全体的にみて陸軍の作戦等は稚拙であり、この国の破滅を招いたのもご承知のとおりである。
どちらも特殊な特殊・困難な目的を有する「原子力村」と「陸軍村」には、かなりの共通性がある。つまり日本人には、「村」のDNAが組み込まれているらしいのだ。
まずは原子力工学といった特殊な専門性に基づき、「村」を構成する。国の関係者をも取り込み、その権力を手中に入れる。これで専門性と権力により、外部の批判を遮断する。すべては村の内部で事を運ぶことになる。この過程で構成員に堕落が生じ、常識すら通じないようになっていくわけである。
発生した事故に関してロシアの専門家は次のように言う。「海辺に建てる以上、大津波は予測可能だったはず。原発で使えるロボットもない」。この程度の話であれば素人でも分かる。しかし彼らにとっては、それすら面倒だったのだろう。
福島原発への大津波の可能性は近年、国会を含め繰り返し指摘されていたという。しかし東電等は一切これらを無視した。彼らの想定最高水位は5.7m。「それ以上の津波は来ない」ことにしていた。まさに「ソ連は攻めてこない」である。
しかし実際に来た津波の高さは14~15m。これにより当然の悲劇が生じたのだ。
実は「村」のリーダー格は、原発リスクへの対応の手抜きぶりにつき、浜岡原発訴訟の場で、次のような居直りともいうべき証言している。電源がすべて機能喪失した事態を想定していないことの理由を問われた際の回答だ。
「そのようなすべてを考慮すると設計できなくなる。だから割り切った考えで行っている」。要するに、リスクは設計ができる範囲のものだけを対象とし、それ以外のリスクは想定しないのである。まさに思考停止。だから破綻すると「想定外」を連発することになる。
ところで外国には、こうした「村」はほとんど存在しないらしい。だから外国は戦後、勇敢に戦う一兵卒の強さは認めても、作戦等のお粗末さには驚いたという。
さらにはわが国の技術力の優秀さをよく知る外国は、原発のリスク管理や事後の対応の拙劣さに驚きかつ怒っている。「村」の存在とその害悪に理解が及ばないからだ。
しかしわが国では、この種の「村」は大なり小なりどこにでもある。ただし「村」の威力は、エリート層が構成したものほど大きくなる。
そしてこの威力の大きい「村」ほど、構成員の堕落も大きくなり、また社会へ与える悪影響も大きくなる。一方、それ以外のものは親睦レベルが多い。
ただし「原発村」に発生しうる悪影響は、超弩級に達する。昔の陸軍と同じく、この国を吹き飛ばしかねないレベルなのである。
日本人のDNAからすれば、「原子力村」の解体は困難であろう。となれば、もうそんな連中に原発をやらせてはならない。したがって敗戦により「戦争放棄」の憲法を作ったように、わが国では「原発放棄」の方向へ動かなければならないのである。