待ち望んでいた判決がついに出ました。6月22日の裁判員裁判による完全無罪判決です。
それは、チョコレート缶に覚醒剤を忍ばせて入国しようとした日本人男性が、成田で逮捕された事件です。男性は一貫して、「知人に持ち込みを頼まれたが、中身が覚醒剤とは知らなかった」と主張しています。したがって裁判の争点は、男性がこれを違法薬物と認識していたかどうかでした。
こうした違法物の運び屋への引渡は海外で行われます。ですからこうした事件では、一般に被告の認識についての直接的な証拠が得にくい状況にあります。
となれば検察は状況証拠で攻めていくしかありません。検察側はこの件でも、税関で覚醒剤が発見された前後の男性の言動に不自然な点があったなどの状況証拠を積み上げて、有罪を立証しようとしています。
たとえば「チョコレート缶は300gもよけいに重かったから分かるはず」、「持ち込み依頼の経緯が不自然」、「税関検査での対応ぶりも不自然」といったものです。
しかし裁判員はこの程度では証拠が少なすぎとして、有罪(求刑は懲役12年)にはできないと考えました。そして「疑わしきは罰せず」として無罪判決となったわけです。
この無罪判決からは二つの重大な点が読み取れます。そのひとつ目は、このような誰が見ても無罪と考えるであろう事案に関しても、従来は有罪判決が出されていたということです。
それは新聞の「検察当局はこれまで、(違反物発見時の被告の反応等を根拠に)覚醒剤を運んだ認識があったと主張し、有罪判決を得てきた」という解説記事からもわかります。
結局のところ、裁判所は検察のいいなりに、何でもかんでも有罪判決を出してきたといって過言ではありません。だからこそ「刑事被告人の有罪率99.9%」、という金字塔が打ち立てられているのです。そして裁判員制度によってはじめて、そうしたデタラメ裁判が否定されたわけです。
もう一点は、「裁判員は何を判断するのか」という、この制度の本質にかかわる点です。この正解は「被告人は有罪か無罪か」ではありません。
判断すべき対象は、「被告人が有罪であるとする証明を、検察官がきっちり行ったかどうかです。すなわち裁判員は、「通常人なら誰でも、有罪であることに疑いを差し挟まないであろうといった程度までに真実らしいとの確信」を得られない限り、無罪としなければなりません。
裏返していえば、弁護側は被告人が無罪であることを立証する必要はありません。それ以前に、通常は犯行を否認している被告人は、(証拠を隠滅する恐れがあるなどとして)釈放されません(実はこの措置は違法というべきです)。ですから被告・弁護側は無罪の証明などできるわけがありません。
その一方、検察側は強大な権限を基に強力な捜査権が認められています。検察側が一方的に有罪の立証責任を負うのは当然です。そしてこれが刑事訴訟法・刑事司法の鉄則なのです。
しかし何年も前から、裁判所は検察の立証責任のハードルを著しく下げてきました。そしてあたかも、弁護側が無罪の立証責任を負っているかのごとき判断を行います。
その上で無理にでも無罪を立証しようとする被告側の対応を称して、「こうした被告人の弁明の矛盾は、いっそう彼が真犯人であることを推認させる」などといいます。そしてこれにより検察の立証の不出来ぶりを補い、強引に有罪判決に持ち込んでいたケースも少なくないようです。
こうした状況下で、裁判員制度がスタートしました。であれば判断基準は、法に則り「検察側が有罪を証明できたか」でなければなりません。それは常識にも叶います。そして裁判官は裁判員に対して、最初の段階でこの点をしっかり説明(教示)しなければなりません。
しかし今回の裁判員裁判をみる限り、こうした点の教示が裁判員に対してしっかり行われていたようにはみえません。それは裁判終了後の記者会見で、無罪とした理由を、「検察側の証拠がなかっただけ。弁護側の主張を信じるしかなかった」とか「被告の心の中が分からなかった」といった発言からわかります。
つまり裁判員は、無罪であるという心証を得るべく懸命に議論していたのです。しかしむろんそのようなことは必要ありません。「検察側の証拠がなかった」。ただそれだけでいいのです。
やはり裁判所は「裁判員裁判でも、なるべく有罪判決を出したい」と考えているようです。確かに無罪判決が大量に出てしまえば、今までの「99.9%」は何だったのか、という声が出るでしょう。
となれば、「裁判員は何を判断すべきか」といった本質論等を世に広めること等により、従来のデタラメともいうべき刑事司法を改善して行くべきと考えるしだいです。