安倍首相は、集団的自衛権に関する憲法解釈の見直しを、首相の権限で進める決意を示している。そしてその具体策として、先日この見直しに反対していた内閣法制局の長官の代わりに、外部から見直し派である外務省小松元国際法局長を起用するという異例の人事を決定した。
内閣法制局は、「政府の憲法解釈の番人」と呼ばれ、長官が国会で憲法解釈について答弁する等、その積み重ねが政府の見解となってきた。
また政府提出の法案等は、法制局による事前の憲法等の整合性の審査なしには国会に提出できない。
こうした大変な機能・権威を有する法制局の幹部は、各省の出向者により構成され、その長官は、各省の事務次官よりも格上のポストとされている。
余談ながらこの法制局は、役人・役所嫌いのわたしが以前から唯一期待している組織でもある。
集団的自衛権とは、自国と密接な関係にある国に対する武力攻撃を自国への攻撃とみなして、阻止・反撃できるとするもので、国際憲章51条で国際的に認められている権利である。
ただし昭和56年の鈴木内閣で「憲法9条で許される自衛権行使は、わが国防衛のための必要最小限度とすべきで、集団的自衛権の行使はその範囲を超え、憲法上許されない」旨閣議決定した。この解釈を歴代内閣は引き継いでいるのである。
ところが安倍総理は、この憲法解釈を変えるための有識者による略称「安保法制懇」を設置する等、集団的自衛権容認に狂奔してきている。
この「安保法制懇」の座長代理である北岡信一氏はこう言う。
「近年の中国や北朝鮮の動きを考えれば、従来の必要最小限度の個別自衛権のみでは、安全保障の現実には全く合致しない。信頼できる国との間で協力して安全を守ろうとする集団的自衛権が「必要最小限」の中に入らないのはおかしい」。
さらに「安保法制懇」の座長柳井元駐米大使も、NHKの討論番組でこう言う。
「今までの政府見解は狭すぎて、憲法が禁止していないことまで自制している。集団的自衛権の行使は、国際法上も認められるし憲法上も許されている」。
同じ番組で小野寺防衛相もこう同調する。
「北朝鮮からの防衛のために公海上に出ている米艦船が攻撃された場合にも、自衛隊は反撃することができない。こうなれば日米同盟は決定的におかしくなる」。
あきれた屁理屈である。
第一に、憲法のどこを読めば憲法が集団的自衛権を容認しているとの結論が出てくるのか。この連中は日本語が読めないのか。いかに同盟国が攻撃されようが、憲法は「国の交戦権はこれを認めない」と明言しているのである。むろん国連憲章などに各国への強制力があるわけもない。
元法制局長官の阪田氏は、怒り心頭でこう批判する。
「そもそも法律は書いてあることがすべて。論理の世界に政治判断が加わる余地はない。まして憲法9条は、政府が50年にわたり論理を追求して出した結論。法制局長官が時の政権によって解釈を変更できるのなら、企業のお抱え弁護士と同じ。それでは法治国家は成り立たない」。
もっとも世の中に革命的変化が生じたのであれば、憲法等の解釈の変更を要する場合もあるかもしれない。
しかし今日そのような変化・必要は全くない。憲法制定後の60年間には、米ソの対立、朝鮮戦争、北方領土問題、ソ連や韓国による漁船の拿捕等、深刻な問題は山ほどあった。尖閣や北朝鮮程度の問題は、常時いくらでも転がっていたのである。
第二に、集団的自衛権の行使が必要であると考えるのであれば、この点を国民に訴え、堂々と憲法を改正すればよかろう。
しかしこれが無理であることが分かっているからこそ、泥棒猫のような解釈改憲をやろうとする。まさにこれでは法治国家は成り立たない。
ただし集団的自衛権は断じて不要である。防衛相は「米艦船が攻撃されても自衛隊はこれを見ているしかない」という。であれば見ていればよい。
米軍には「我々は憲法により、自身が攻撃されない限り武力行使はできない」旨を重々伝えておけばいい。これで日米同盟がおかしくなるわけはないのである。
(以下№2に続く)