未だにくすぶっている全柔連は、まさに救いがたい組織である。
監督の暴力行為についての女子柔道選手による必死の訴えを、何度も握りつぶす。マスコミが大問題にしてやっと動き出すも、当初は暴力監督を変えようとさえしなかった。

このあきれた体質の大元は、組織内の序列を現役時代の実績と年次だけで決めている点に求められよう。選手として優秀であることと、組織運営能力や指導能力が優れているかどうかは無関係だからだ。

にもかかわらず、幹部候補生を現役時代の実績で決めてしまう。そうすれば。組
織内外でのしんどい競争や切磋琢磨を経ずして、該当者は組織の幹部になることができる。

彼らはそうした経歴や地位に大きなプライドを持つ。その一方、内心でうすうす承知している実力不足を覆い隠すために、仲間内でムラをつくり外部を遮断する。
その結果、どうしても常識・バランス感覚が欠けてしまう。だから旧態依然の発想のまま、暴力監督を擁護するといった大失態を演じる。

たとえば、ムラの内部だけでぬくぬくとやっていれば、外部との折衝力も身につかない。柔道界が国際的な発言権を失ってきたのも無理からぬものがあろう。

こうした悪弊は是正されてしかるべきであるが、現実はそうはいかない。是正するかどうかの決定権を有する人、つまり組織のトップが、その悪弊のメリットを最大に享受している者だからである。
まして組織改革により部下に実力者が配されば、自己の実力欠如ぶりが暴露されてしまう。プライドが高いだけにそれは大変な恐怖となる。

いうまでもないが、これは柔道界に限るものではない。スポーツの各団体さらには芸術・芸能等、実力勝負の分野における上部団体等に共通の問題ではあるまいか。日本における共通のメンタリティのなせる技といえるのかもしれない。

ちなみに、サッカーの日本代表を率いるザッケローニ監督の現役時代の実績は、さしたるものではなかったという。監督になってからは二部チーム等を率い、その手腕が認められてACミランといったビッグチームの監督になったのだそうだ。

さて今までは、組織運営の力量を、現役時代の実績という無関係の要素で決定してしまうという悪弊を指摘してきた。

しかし「現役時代の実績」という用語を「ペーパー試験の成績」に置き換えれば、この国の役所の本質を突くことになる。すなわち中央省庁等の公務員に最も要請される使命感・責任感・正義感等は、ペーパー試験などで測れるものではない。

ところがこの成績優秀者がキャリアと称して、仲間内だけで出世コースを歩む。つまり選ばれた者として、ひたすら「優越した心地よい人生」を追求する。その過程で、これにむしろ邪魔となる使命感等を放擲するのである。

どうもこの国の組織は、上にいる者ほど楽ができるようなっているらしい。「いい思いをしたけりゃ出世しなさい」というわけなのであろう。だから下の者には厳しい任務・ノルマが課される。その究極の姿が、赤紙組が特攻隊に行き、それを命じた無能な軍部がのうのうと生き残ったという事実である。

かなり話が大きくなってしまったが、全柔連の姿をみていたところ、ついこれらに思いを致してしまった次第である。