読売新聞の9月3日の夕刊は、ヘリ墜落事故に関して、第6管区海上保安本部(6管)の本部長の更迭を報じている。事故に司法修習生へのデモ飛行がからんでいたことの隠蔽工作したことが、最大の理由となっている。
既にこの件に関しては、「海保デモ飛行の不可解な検察への遠慮と、修習生の物見遊山」とするタイトルにより本欄(「時事を切る」の部)で論じている。詳細はそちらをご覧いただきたい。
ただしそこでは、6菅が組織を上げて「修習生へのデモ飛行」を隠蔽しようした本部長等の対応につき、私は次のように批判している。
“最後になってやっと会見に表れた本部長は一応頭を下げたものの、「何故ウソをついたのか」とする記者の質問にこう答えている。「分かった事実をすべて公表する必要はない。(公表が)遅れたとの指摘はあるが、特に問題はないと思っている」。
役所のあきれた論理を振り回すこんな男は、懲戒免職にすべきである。前原国交大臣は「厳正に処分する」と述べているが、果たしてどこまでの処分ができるかを注目しておきたい”。
そして前原国交大臣は、この本部長を海上保安庁総務部付へと更迭したわけだ。まずは妥当な処理といってよい。
しかし新聞はこの処分につき次のように報じている。「海保幹部の1人は、”広報をめぐる不手際といった、違法性がないような事案での更迭人事は聞いたことがない”と驚きを隠さない」。
冗談はやめていただきたい。「驚きを隠さない」はこちらが言うことである(イヤ実際のところ、この反応には本当に驚いた)。いうまでもなくこうした発想は海上保安庁に限った話ではなく、役所全体に共通のはずである。
成る程、役人というのはとことん「責任をとる必要のない人種」というわけだ。いや「責任を取らないでいいようなシステムを勝手に作り上げた人種」というべきであろう。
しかし民間であれ役所であれ、大きな不祥事を引き起こせば責任をとらされるのは当然のはずである。そこでの形の上での違法性の有無など、さして問題にはならない。要するに、役人はどのような失態をしでかしても、違法性がなければ「おとがめなし」ですましていたわけである。
ところで先の幹部の話では、「違法性があるような事案」であれば責任をとっているように聞こえる。しかし「違法性」など何とでも解釈できる。まして解釈は身内が行う。だからひたすら「違法性なし」の解釈を行うことにより「責任なし」出済ませる。そしてそれが組織的に許される。「お互い様」だからである(その意味では、前原大臣はがんばったといえよう)。
だから役人の仕事には緊張感がない。ましてや「目標(ノルマ)達成に向けての背水の陣、真剣勝負」などは全くの無縁である。結局いくらペーパー試験が強かったとしても、使命感を失ったまま、ぬるま湯にどっぷり浸かっているような輩ではどうにもならない。
この本部長も、それまでは「職を辞するつもりはない」と平然としていたようだ。ただし処分後には「詰めかけた報道陣に対し「粛々と受け止めたい」と淡々とした表情で語ったが、質問には一切答えなかった」という(読売新聞)。まあよほどこの処分がご不満だったのであろう。
しかしついでに言えば、マスコミの追及もあまりに手ぬるい。なぜ「質問には一切答えなかった」を易々と許したのか。答えたくない状況に斬り込んで答えさせるのが、詰めかけたとされる報道陣の仕事ではないのか。
何よりそうした斬り込みは、「自らの悪事につき反省させる」機会になる。さらにそれは、役人の日頃の仕事に多少とも緊張感を持たせることにもつながろう。
こうした手ぬるさは、不祥事を起こした民間人に対するもの比べてみれば明らかだ。そこでのマスコミは、世間様の代表のような大きな顔をしつつ、弱者ともいうべき存在となったその民間人をつるし上げるがごとく追及する。
こうした「官尊民卑」ともいうべきマスコミの体質は、どうにかならないものか